「どちらか1匹」のつもりが、娘の訴えで双子の保護猫と家族に 3人の子どもの献身的なお世話ですくすく成長!(ねこのきもち WEB MAGAZINE)

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「どちらか1匹」のつもりが、娘の訴えで双子の保護猫と家族に 3人の子どもの献身的なお世話ですくすく成長!(ねこのきもち WEB MAGAZINE)
「猫と暮らすのは初めてのことだったので、家族で何度も話し合いをし、2匹を家に迎えることとなったんです」 こう話すのは、Twitterユーザーの@mozukon_xiaomaoさん。
[紹介元] ねこのきもち WEB MAGAZINE – Yahoo!ニュース 「どちらか1匹」のつもりが、娘の訴えで双子の保護猫と家族に 3人の子どもの献身的なお世話ですくすく成長!(ねこのきもち WEB MAGAZINE)

どちらか1匹 のつもりが 娘の訴えで双子の保護猫と家族に

コンビニ大手3社のあんまんの販売傾向として、東日本ではこしあん、西日本では粒あんという地域区分がみられるといいます。あんまんの中身について、あなたは粒あんとこしあんどちらが好きですか?

わたしにはわが国の工場制度が、人が衣類を手に入れる最善の方法であるとは信じられない。職人の条件は日一日とイギリスのそれに似てきている。そして、わたしの聞きまたは観察したかぎりにおいては、その主な目的は人間を善くそしてまっとうに装うということではなく、疑いもなく会社を肥らせるということであるから、それもあたりまえの話である。とどのつまりは人間は狙ったもののみを射あてるものだ。それ故、さしあたりは失敗するにもせよ、何か高いものを狙った方がよい。

食べごたえたっぷりのつぶあんと、しっとりなめらかなこしあん、読者のみなさんはどちらが好みだろうか。東日本ではこしあん、西日本ではつぶあんが一般的だが、地域や使用される料理によっても異なるだろう。そんなこしあんとつぶあんを巡って、セブン-イレブンのあんまんの中身がどこから異なるかが話題を呼んでいる。今回は、その境界線に対する消費者の反応を見ていこう。

ウォールデンでは七ポンドのコガマスが獲れた。そのほかにおそろしい速さで糸巻きを引きずりこんでしまったのがあるが、その釣り手はそれを見なかったので安心して八ポンドと踏んでいる。そういうコガマスと、スズキの類のパーチとタラの類のパウト(それぞれ二ポンドぐらいのがあった)、銀色のシャイナー、ウグイ(Leuciscus pulchellus)、ごくわずかなコイの類、二匹のウナギ(四ポンドのがあった――わたしはわざわざこんなことを書くが、魚にとっては目方が唯一の自慢のたねであり、ウナギはここではほかに獲れた話をきかないからである)が獲れた。わたしはまた、五インチばかりの小魚で銀色の脇腹と緑がかった背をもち、ややウグイに類した魚をおぼろげに記憶しているが、主としてわたしの事実とおとぎばなしとを結びつける意味でここに書いておく。にもかかわらず、この池はあまり魚にめぐまれてはいない。コガマスが、たくさんいるとはいえないけれども、その随一の自慢である。わたしは氷のうえに横になって、一度に少なくとも三種類のコガマスを見たことがある。一つは鋼鉄色で長くて幅がせまく、河で取れるのによく似ており、一つは明るい金色の種類で銀色に反映し、たいへん幅があるが、これがここではいちばん多い。もう一つは、これまた金色で前のと形も似ているが、脇腹にはマスに非常によく似て、小さな濃い鳶色又は黒の斑点とそれにまじってすこしばかりのかすかな血紅色の斑点とがばらまかれている。reticulatus(網状の)という種名はこれにあてはまらないらしく、むしろ guttatus(斑点ある)にちかいであろう。それはたいへん身の緊まった魚で、見かけの大きさよりは目方がある。水がきれいなため、この池にすむシャイナーやパウトやパーチ、いや、すべての魚は、河やたいがいのほかの池の魚よりもずっと清らかで美しく、身が緊まっていて、容易にそれらとは見わけがつく。たぶん、多くの魚類学者はそのうちのあるもののために新しい種類を立てることだろう。そこにはまた、蛙や亀の清らかな種族があり、貽貝(いがい)も少々ある。ジャコウネズミや貂(てん)は池のほとりに跡をのこし、時には旅の泥亀もおとずれることがある。ある朝、わたしがわたしのボートを押し出したとき、夜のうちにボートの下にもぐりこんだ大きな泥亀をおどろかしたこともある。カモとガチョウとは春秋にしげしげとおとずれ、白い腹のツバメ(Hirundo bicolor)はその上をかすめ飛び、オオルリ(Totanus macularius)は夏じゅうその石の多い岸にそうてさえずる。わたしは時々、水の上につき出ているシロマツのうえにとまっているミサゴをおどろかしたことがある。が、それが、フェア・ヘーヴンのようにカモメのつばさで神聖をけがされたことがあるかどうか、わたしはうたがうものである。それはやっと年に一羽のカイツブリを許すだけである。以上は近年ここをおとずれる目ぼしい動物のすべてである。

ウォールデンの入口出口については、わたしは雨と雪と蒸発と以外には何も見いださなかった。しかし寒暖計と紐(ひも)とをもってすればそういう場所が見いだされるかもしれない。なぜならば水が池のなかにそそぎこむところはたぶん夏はいちばん冷たく冬はいちばん暖かいであろうから。一八四六年から七年にかけての冬に氷切出し人夫がはたらいていた時、岸にはこばれる氷の断片を積みあげていた人間が、ある日他のものとうまくならばないほど薄いといってそれを拒絶したことがあった。そのために切出し人夫はほんの小部分の氷が他の場所よりも二、三インチ薄いことを発見して、そこに水の入口があるとかんがえた。かれらはまた別の場所においてかれらが「底穴(そこあな)」だとかんがえているものをわたしに示した。池の水がそこを通じて一つの丘の底をくぐって近所の牧場まで洩れているというのだ。そしてそれを見るようにとわたしを氷のうえに押し出した。それは水の下十フィートにある小さな穴であった。だが、それよりもひどい洩れ口が発見されるまではこの池はハンダづけの必要がないとわたしは保証できると思う。そういう底穴が発見されたら、それと牧場との連絡は、その穴の口に何か色のついた粉か鋸屑(おがくず)を持っていき、一方牧場の泉の上に濾過器を仕掛ければ、水の流れによってはこばれる粉粒がそれに引っかかるだろうからそれで判る、と提案した人があった。

雪のいちばん深いときには、本街道からわたしの家に行くのに用いられた約半マイルの道はうねうねした間隔のひろい点線で表わすことができたろう。おだやかな天気がつづく一週間にわたって、わたしは往復に同じ長さの、全く同じ数の歩みをはこんだ。慎重に足をすすめ、両脚器の正確さをもってわたし自身の深い足跡をつたうのである――冬はこのような鋳型(いがた)にわれわれをはめこめてしまう――しかしそれらはしばしば大空自身の青でみたされていることがあった。けれどもどんな天候でもわたしの散歩、ないしは外出を徹底的にさまたげることはなかった。わたしはブナまたは黄カバとの、あるいは松のうちの古い知り合いとの約束をはたすために最も深い雪のなかを八マイルも十マイルも出向くことがよくあったのだ。松は氷と雪のために手足を垂れさがらせ、その梢(こずえ)を鋭く尖らされたので樅(もみ)のようになっていた。雪が平地でほとんど二フィートの深さのときに、一歩ごとに頭上におちかかる別な雪なだれをふり落としつつ最も高い丘の頂きにのぼっていくのだ。猟師も冬籠りに去ってしまったときに、四つんばいになって這(は)いもがきながらそこへ進むこともあった。ある午後、わたしは縞フクロウ(Strix nebulosa)がシロマツの地面に近い枯枝の、幹に近いところに停まっているのを、一ロッドとはない距離に立っておもしろく見まもった。彼はわたしが身うごきをして足で雪音をたてればそれを聞くことができるのだが、わたしをはっきり見わけることはできないのだ。わたしが大きな物音をたてると頸(くび)をさしのばし、頸の羽毛を立て、眼を大きく見ひらくのだが、じきにまたその目蓋(まぶた)が垂れてきてお辞儀をはじめるのだ。彼がこういうふうに猫のように――まさに猫のつばさある兄弟だ――半眼をひらいて坐っているのを三十分ばかり見まもっているうちにわたし自身もどうやら眠気をもよおしてきた。彼の目蓋のあいだにはわずかに細い裂れ目がのこされていてそれで彼はかろうじてわたしとの関係をつなげていた。こうして半眼で、夢の国から見やりつつ、彼の視界をさえぎる、ぼやけた物体またはごみとしてわたしを認めようとつとめているのであった。とうとう、一段と物音が高くなったり、わたしがさらに近よったりすると、彼は自分の夢をさまたげられるのが我慢ならんというふうに、不安になってその停まっている場所を物憂そうに飛びまわった。そして思いのほか広い翼をひろげて松の木立ちを縫って羽ばたいて飛び去ったが、わたしはその動作からすこしの音も聞くことができなかった。こうして松の大枝のあいだを、枝の接近を視力によってよりはむしろ鋭敏な勘(かん)によって知らされつつみちびかれ、いわば彼の感覚的な翼でたそがれの進路をさぐりながら、彼は新しい止まり木を見いだして、夜という、彼の日が明けるまで安全に待とうとするのであった。

この小さな湖は、八月のしずかなひと雨の合間に、最も趣きのふかい友となる。そのときは、空気も水もしずまりかえって空だけが雲でおおわれ、日ざかりの時刻が夕方のようなおちつきをもち、ツグミがあたりに鳴き、また岸から岸へと聞こえてくるのであった。このような湖水はこういう場合にいちばん鏡のようである。その上の空気の澄んだ部分は狭く、暗い雲がせまっているので、光りと反映とにみちている水面そのものが、ひとしお尊げに見える地上の天となる。近ごろ伐(き)りひらかれた丘のいただきからは、池を越えて南の方に、その辺の岸をなしている丘の広い凹(くぼ)みを通して気持のよい見はらしがあった。そこでは対立している丘がお互いにむかって傾斜し、木のしげった谷間をその方向に一つの川が――実際にはなかったが――流れ出ているように思わせた。わたしはその方向に、近くの緑の丘のあいだから、またそれを越して、地平線をなす青みがかった遠い、より高い山々をながめた。じっさい、爪先立って見れば西北にあるもっと遠くもっと青い山脈の峯のいくつか――天の鋳造所で鋳(い)られた真っさおな貨幣――を、それから村の一部をも瞥見することができるのであった。しかし、この地点からでさえ、ほかの方角では、わたしをめぐる森の上をまたはその向う側を見ることができなかった。近所に水をもっていることは土地に弾力をあたえ、それを浮かばす意味で良いものである。ごく小さな泉でさえ、その一つの値打ちは、それをながめていると大地は陸つづきではなくて島であることがわかることである。それは、そこでバターを冷やしておけることにおとらず重要なことである。この高い所から池を越してサッドベリー牧場の方をながめると――大水が出たとき、わたしはたぶん蜃気楼作用によって、その沸きかえる谷間のなかに、盥(たらい)のなかの貨幣のようにそれがもち上がっているのを見つけた――中をへだてている、このささやかな水面によってさえ、池の向う側のすべての陸地が島にされ、浮かび上がらされている薄い地殻のように見え、わたしはわたしの住んでいるこの大地がただ水のついていない陸地にすぎないことを思わされた。

わたしの同時代者のある者がボストンもしくはローマの美術に、他の者がインドにおける観照に、また他の者はロンドンまたはニューヨークにおける商売にささげたそれらの夏の日々をわたしはこうしてニューイングランドのほかの農夫たちとともに耕作にささげたのである。わたしは食うために豆が入用なのではない。豆の関するかぎり、わたしはスープにもせよ投票用にもせよ元来ピタゴラス流の豆ぎらいで、それを米と交換してしまったのである。だが、たぶん、いつか寓話作家のお役に立つように、比喩や表現のために誰かが畠ではたらいていなければなるまいからだ。それは概していえばなかなか獲られない娯楽であった。しかしあまり長くやりすぎると一つの放蕩となったかもしれない。わたしは肥料をやらず、一度に全部の草取りをしたこともないが、わたしはわたしなりにめずらしく善く草取りをし、結局その報酬をえた。イーヴリン〔ジョン・イーヴリン。一六二〇―一七〇六年、有名な日記作家で畠作りについて書いた〕がいっているとおり「まったく、どんな混合肥料でも施肥でも、この、鋤で絶えず耕し、掘りかえし、土をひっくりかえすということとは比べものにならない」からであった。彼はほかの個所で附言している、「土は――特にそれが新しい場合には――一種の磁気をふくんでいて、それが自らに生命を附与する塩、力、もしくは効能(名称はどうでもあれ)を吸収する、それゆえにこそわれわれは自らを維持するために大いに骨を折って絶えずそれをたがやすのである。糞肥やその他の下等な調合肥料はこの良法に対する代用手段にすぎない。」のみならず、わたしの畠は「安息をたのしんでいる、疲れた、力のつきた等外品の畠」の一つであったから、たぶん、サー・ケネルム・ディッグビーがありうることと考えたように、空気中から「活きる霊力」を吸収したかもしれない。わたしはソラ豆十二ブッシェル〔一ブッシェルは約二十七キログラム〕を収穫した。

わたしの家は丘のかたわら、大きな森のはじにすぐ接した、脂(やに)の多い松やサワグルミの若い林のまんなかにあり、池からは六ロッド〔一ロッドは約五メートル〕で、そこまでほそい小路がだらだらと下りていった。前庭にはイチゴ、クロイチゴ、ハハコグサ、オトギリソウ、アキノキリンソウ、樫の灌木、サンドチェリー(Cerasus Pumila)、アオイチゴ、ジマメが生えていた。五月の末になるとサンドチェリーはそのみじかい茎のまわりに円筒形の繖形花序(さんけいかじょ)にならんだその繊細な花で路の両側をかざった。その茎は秋になると大きくふくらんだ見事な桜んぼの重みで垂れさがり花環の形で放射線状にいたるところにたおれかかった。その実はうまいとはいえなかったが、わたしは自然に対するお愛想のつもりで味わってみた。ウルシ(Rhus glabra)は家のまわりにいきおいよく生え、わたしの造った土堤を越えて押しよせ最初の年に五、六フィートにもそだった。その幅のひろい、羽状の熱帯的な葉は見た目に奇異ではあるがこころよかった。春おそく、枯れてしまったような乾いた枝先から押しだした大きな芽は、魔法でもあるかのように優美な、緑色をしたやわらかい、直径一インチの枝となってのびひろがった。それはあまりに向う見ずにそだってその弱い付け根に負担をかけたので、わたしが窓べに坐っていると、そよとの風も吹かないのに、新しいやわらかい枝が自分の重みにたえかねて突然扇のように地面に倒れる音がするのを聞くこともあった。八月には、花時には多くの野生の蜜蜂を牽きよせた苺(いちご)の大きなかたまりが、次第にそのかがやくビロードのような真紅の色を帯び、これもその重みで倒れてやわらかい茎を折った。

ある十月のたいへんおだやかな午後、――そういう日には特にカイツブリはヤマニンジンの綿毛のようなすがたで湖水に下りているものであるが――わたしが北の岸あたりを漕(こ)いでいるとき、あたりを見まわしても一羽も見あたらなかったのに、突然わたしの前数ロッドのところを一羽が岸から湖心にむかって泳ぎながらその野性の笑い声をたて、わたしに発見されてしまった。わたしが櫂(かい)をふるって追跡するとそれは水にもぐったが、ふたたび水面にあらわれたときには前よりもっとわたしのそばに出てしまった。彼はまたもぐった。わたしは彼の取る方角の見当をあやまったので、こんど水面に出たときは、わたしが間隔をひろげる助けをしたのもあって五十ロッドあまりへだたってしまった。彼はふたたび長く声高く笑ったが、こんどはもっともな理由があったわけだ。彼は非常に巧みに行動したのでわたしは十二ロッド以内には近づけなかった。水面にあらわれるごとに彼は首をあちこちに向けて、水と陸地とを冷静に測量し、最も大きい水のひろがりとボートから最大の距離があるところに出ようと進路をえらんだようであった。どんなに速かに彼が決心をきめ、その決心を実行にうつしたかはおどろくべきものがあった。彼はたちまちわたしを池のいちばん広いところにおびき出し、わたしはどうしてもそこから彼を追い出すことができなくなった。彼がその頭のなかで何かをかんがえていると、わたしの方はその考えを推測しようと試みるのであった。それは池のなめらかな表面でおこなわれる人間対カイツブリのおもしろいゲームであった。たちまち相手の駒は盤面の下に消える――問題は自分の駒をそれがふたたびあらわれるところに最も近く置くことであった。時には、どうもボートのちょうど下をくぐったらしくわたしの反対側にひょっこり現われることもあった。彼は息がよくつづき労(つか)れることを知らず、ずっと遠くまで泳いで往ったにもかかわらず、そのままもぐってしまうことがある。そうなるとしずかな水面のどの深いところで彼が魚のように泳ぎ進んでいるのか、何としても判断がつかない。彼は池のいちばん深い底までもぐっていく時間と能力とをもっているのだから。ニューヨークの湖水では水面下八十フィートのところでマスのために仕掛けられた釣鉤(つりばり)でカイツブリがつかまえられたそうだが、ウォールデンはもっと深いのである。魚は自分たちの群のなかに別の世界からこの不細工な訪問者が突進してくるのを見てはさぞおどろくことだろう。が、彼は水のなかでも水面上とおなじによく進路がわかるらしく、またその方がずっと速くおよげた。一、二度わたしは彼が水面に近づいたところにさざ波がおこるのを見たが、彼はちょっと首を出してあたりの形勢をうかがい、ただちにまたもぐってしまった。わたしは、彼がどこにあらわれるか予測をこころみるよりは、櫂をとめて出てくるのを待った方がましなのを悟った。なぜならば、わたしが眼を凝らして水面の一部をにらんでいるときに、突然うしろに彼の気味のわるい笑い声を聞いてびっくりすることが何回となくあったからである。けれどもそんな巧妙さを示しながら、水面に出るたびごとになぜ彼はあの高笑いでいつも自分のいることを暴露しなければならないのだろうか? 彼の白い胸がすでに十分自分を暴露しているではないか。じっさい馬鹿なカイツブリだとわたしは思った。彼は水面に出るときにはたいがい、パシャッと水音をたてたのでそれによっても彼がいるのがわかった。しかし一時間後にも彼は相かわらずはつらつとしていて元気よくもぐり、最初のときよりもっと遠くまで泳いだ。水面に出るとすべての働きは水面下の水掻きのついた足にまかせて、胸元はすこしの乱れも見せずに悠々と泳ぎ去るのを見るのはおどろきにあたいする。彼の普通の鳴き声はこの悪魔的な笑いであったがそれでもいくらか水禽(みずとり)らしいところがあった。しかし時々、彼がわたしを最もうまくまき、ずっと遠くの水面にあらわれたときには、禽というよりはおそらく狼のそれに似た長く引かれた薄気味わるい咆(ほ)えごえをたてた。ちょうど獣が鼻づらを地面にあてて本腰に咆え立てるときのように。これが彼のカイツブリ鳴きであった――それは遠く広く森に鳴りひびき、たぶんここで聞かれるいちばん野性的な音である。彼は自分の実力に自信があってわたしの努力をあざけって笑ったものだとわたしは結論した。空はこのときすでにすっかり曇ってきたが、池のおもては非常に澄んでいて、その鳴き声は聞こえなかったが彼が水面をやぶって姿をあらわすのが見えた。その白い胸、大気のしずかさ、水面のなめらかさ、はすべて彼に不利であった。ついに、五十ロッドあまりのところまで迫ると、彼はカイツブリの神に救いをもとめるように、あの長く引いた咆えごえをあげたが、たちまち東の風が起こって水面が波だち、あたりの空気は煙るような雨にみたされ、カイツブリの祈りが答えられ、彼の神はわたしに対して怒っているのだという感銘をうけて、わたしはついに立ちさわぐ池のおもてを彼が遠く消え去るのを手をつかねて見おくった。

北風はすでに池を冷やしはじめた。しかし、それをすっかりしおわせるまでには幾週間も吹きつづけなければならなかった。池が深いからである。晩に火を入れはじめたとき、まだ家の壁塗りをすまさなかった前は、板張りのあいだの隙間が多かったので炉から煙の出ぐあいがことに良かった。しかしわたしは、節だらけの荒けずりの樺色の板や、頭上高くにある樹皮のついたままの梁(はり)にかこまれて、この涼しく風通しのよい部屋でたのしい幾夜かをすごした。壁塗りがすんだあとは、さすがに一層居ごこちがよいと告白しなければならないが、見た眼には前ほどおもしろくなくなった。人間の住むすべての部屋は十分高くて頭のうえに幾らかの暗がりをのこし、そこの梁(はり)のあたりに夜はゆらめく火の影が映りゆらぐべきではないだろうか? そういう物の形の方が壁画とかそのほかのたいへん高価な家具より人の空想や想像力をこころよくそそるものである。雨露をしのぐだけでなく煖を取るようになって、わたしは今こそはじめて自分の家に住むようになったのだともいいうる。わたしは薪を焚き口からへだてる古い一対の薪架(まきうま)を手に入れた。自分でつくった炉の奥に煤(すす)がたまるのを見るのは気持のよいものであり、わたしは平生以上の権利と満足とを感じて火を突っついた。わたしの住宅は小さいもので、物音の反響などができる余地はほとんどなかった。しかし、部屋がたった一つであり隣家からも遠かったので割に大きく感じられた。家というもののすべての魅力はただ一つの部屋に集約されていた。それは台所であり、寝間であり、客間であり、居間であった。親なり子なり主人なり召使いなりが家に住まいすることから引き出しうるあらゆる満足をことごとくわたしは味わった。カトーは、一家の主人 Patremfamilias はその田舎の別荘において「油と酒との穴蔵、多くの樽をもたねばならぬ。そうすれば困ったときがきても心づよいものである。それは彼の利益にもなり力にもなり、名誉にもなるであろう。」“Cellam oleariam, vinariam, dolia multa, uti lubeat caritatem expectare, et rei, et virtuti, et gloriae erit.”といった。わたしは穴蔵にジャガイモの小さいひと樽と、コクゾウ虫のまじったエンドウ豆二クォーツ〔一クォーツは約一リットル〕ばかりとをもち、棚には少量の米、糖蜜ひと壜(びん)、ライ麦とトウモロコシとの粉をおのおの一ペックあまりをもっていた。

わたしは陽気が凍るようになってはじめて壁塗りをした。わたしはこの目的のために池の対岸から舟にのせて白い、きれいな砂をはこんできた。この輸送方法は、必要ならばもっとずっと遠方まで行ってもかまわない気持になるほどおもしろいものであった。そのあいだにわたしの家は四面とも地面まで板張りができた。木舞(こまい)をつける際には金槌(かなづち)のひと打ちで釘をすっかり打ちこむことができるのをおもしろく思った。その次には、壁土をこね板から壁にきれいに速く移すのが、わたしの野心となった。わたしは、立派な着物を着こんで村を押しあるき、職人に助言をあたえる癖があった、ある自惚家(うぬぼれや)のはなしを思いだした。彼はある日、口先きだけでなく実地に模範を示そうとくわだて、袖をまくりあげ、左官屋のこね板を引ったくって、難なく鏝(こて)に土をのせて、自信たっぷりの顔つきで頭上の木舞を見さだめ、それをめがけて大胆な動作におよんだ。たちまち中味はそっくり彼の襞飾りをした胸におちかかって、完全に味噌をつけてしまったのである。わたしはそんなに有効に寒さを閉め出し、いかにも立派な仕上げとなる漆喰塗りの効率と便益とをあらためて感服し、また左官屋がおちいりやすい各種の失敗がどんなものであるかを知った。煉瓦というものがたいへん乾いていて、まだ平らに均(な)らさないうちから漆喰の水分を吸いつくしてしまい、新しく炉を築くには手桶に何杯もの水が入用なのを知っておどろいた。わたしは前年の冬に一つの実験のつもりで、そのへんの川に産する Unio fluviatilis の貝を焼いて少しばかりの石灰を作ったことがあった。だからわたしはどこからわたしの原料がきているのか見当がついた。わたしはそうする気があったら一、二マイルの近在で立派な石灰石を入手して自分で焼くこともできたのである。

食料貯蔵の地下室で泥亀でも追っかけまわすがせいぜいの多くの駄犬が、主人に内緒で森にでかけてその重たい四つ脚をひけらかし、古い狐の穴やヤマネズミの穴を無駄に嗅ぎまわった。かれらを率いる者はたぶん取るに足らない犬ころだが、森のなかをすばやく縫いまわり、それでもそこの住民に自然な恐怖を吹きこむに足るのであった。かれらは、時には、先導よりはるかに遅れて、難を避けて木に駆けのぼった小さなリスにむかって、犬である牡牛のように咆え、時には、兎族のはぐれた一員の跡を追っ駆けているものと自分を空想しながら、からだの重みで茂みをたわませながら飛び去るのであった。一度わたしは石の多い池のほとりを猫があるいているのを見てびっくりしたことがあった。猫が人家からこんな遠くさまよい出ることはめったにないからである。むこうもおどろいた。だが、一日じゅう敷物のうえに寝そべっているような最も家庭的な猫でも森のなかにきて結構おちつきすまし、その抜け目のない、こそこそした動作によって、森の定住者たちよりかえって場馴れがした観があった。あるときわたしは木の実を摘みに往ったところ、森のなかで、全く野生になった一匹の猫とその子たちとに行き会った。子猫たちは母親もろとも背中を立ててわたしにむかって猛々しく唾を吐いた。わたしが森に住むようになった数年前、池に最も近いリンカンの農家の一つであるギリアン・ベーカー方に、いわゆる「翼のある猫」なるものがいた。一八四二年六月、わたしが彼女――牡だか牝だか知らないのだが普通使われている代名詞を用いておく――を訪れたときには、彼女はいつもするとおり森に狩りにでかけていた。彼女の女主人は、こういう話をしてくれた――この猫は一年あまり前の四月にこのへんにやってきて結局この家に飼われることになった。色は濃い鳶色(とびいろ)がかった灰色で、のどには白い斑点があり、脚も白く、狐のように大きなふさふさした尾をもっていた。冬になるとその毛皮が厚くなり両脚に沿うて長さ十インチないし十二インチ、幅二インチ半の帯になってはみ出し、頤(あご)の下も手ぬくめ(マッフ)のようになり、その上側はばらばらの毛であるが下の方はフェルトのように絡(かが)り合っている。春になるとそれは落ちてなくなる。家の人はこのいわゆる「つばさ」を一対わたしにくれ、わたしは今でもそれを保存している。それには膜は見あたらない。これは飛びリス(ムササビのような)か、それに似た他の動物の血の交わったものだろうと考える者もあるが、ありうることである。博物学者によると貂(てん)と家猫の交合によっていろいろな間(あい)の子(こ)ができているそうだから。わたしが猫を飼うのだったら正にこういう猫を飼うべきだろう。詩神のつばさある馬ペガサスのように、詩人の猫もつばさをもっていて良かろうではないか。

同ツイートは7,400件以上(2021年11月15日時点)のいいねが寄せられ、「あんまん戦争が勃発しそう」などと話題に。セブン-イレブンのあんまんの境界線に対し、ネットでは「えっ…こしあんのあんまんがあるの…?」「つぶあんのあんまんがあることに驚愕」と他地方のあんまんの中身に驚く声が多数寄せられている。また、「つぶあん好きな東北出身関東住みには辛い現実」「つぶあん派の秋田県民です」など、地元では販売されない好みのあんまんを切望する意見も上がっている。中には「期間限定でもいいからどちらも販売して人気を確かめてほしい」といったファンまでいるようだ。食べごたえたっぷりのつぶあんと、しっとりなめらかなこしあん、読者のみなさんはどちらが好みだろうか。東日本ではこしあん、西日本ではつぶあんが一般的だが、地域や使用される料理によっても異なるだろう。そんなこしあんとつぶあんを巡って、セブン-イレブンのあんまんの中身がどこから異なるかが話題を呼んでいる。今回は、その境界線に対する消費者の反応を見ていこう。コンビニ大手3社のあんまんの販売傾向として、東日本ではこしあん、西日本では粒あんという地域区分がみられるといいます。あんまんの中身について、あなたは粒あんとこしあんどちらが好きですか?セブン-イレブンといえば、地域に根ざした商品開発が魅力。麺類だけをとってみても、九州では「肉ごぼう天うどん」、東海では「かきあげときつねのきしめん」、長野では「信州産蕎麦粉のかき揚げそば」など、地方限定の商品が多数販売されている。地域によって商品が違うことは知っていたが、あんまんの中身にまで地方性を出しているとは、恐るべし企業努力……。遠出の旅行の際には、あんまんをはじめ、セブン-イレブンのご当地グルメをチェックしてみてはいかがだろうか。

大体からいって、服装はわが国でもどこの国でも芸術といえる品格にまで高められたとはいえないと思う。現在、人々は手にはいる物を何とかしてまとっているだけである。難船した水夫のように、そこの浜辺で、空間的にも時間的にも手近かにありあわせた物を身につけ、おたがいの風変りな風体(ふうてい)をあざ笑っている。各世代は昔の流行をわらうが、新しいそれには宗教的にかしこまって従う。われわれはヘンリー八世やエリザベス女王の衣裳を見てそれが喰人島の王様や女王のそれであるかのごとくおもしろがる。人間から切りはなされたすべての衣裳はみじめであるかグロテスクであるか、どちらかである。笑いを控えさせ、人の衣裳を神聖化するものはそこから見つめる真剣な眼とそのうちで過ごされた誠実な生活のみである。道化役者が疝気(せんき)の発作におそわれればその派手な衣裳もその病苦をあらわすにちがいないし、兵士が砲弾に射(う)ちあてられればぼろも紫衣のけだかさをもつであろう。

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